水俣の事例に学ぶ

日本現代史における大きな苦難の歴史、水俣病。その発端には、日本の近代化へ向けた情熱と地方の疲弊した住民感情とがあった。大資本と誘致運動の歴史。それは原子力政策に顕著なように、現在でも脈々と受け継がれている。

水力発電所の建造により安価で豊富な電力源を保有していたチッソ(当時は木曽電機株式会社という名称)は、それを農業用肥料の製造に有効活用しようとした。一方寒村の貧しい地域であった水俣には、手に職を持たない人々がたくさんいた。そこで地域における新たな雇用機会の創出と経済の勃興とを求めて工場誘致運動が発足。結果として水俣に日本初の窒素製造工場が建造された、という文脈があった。当時の最新技術を次々と開発していったチッソ、その工場のある水俣は、企業城下町として急速に経済的に裕福な地域となっていったのだった。

その後正式には1956年に水俣病が発症されてから、地域住民をはじめ、国にも企業にも、暗い影を落とした(本稿では水俣病そのものが主題ではない為、ここに詳しくは述べない)。

地元学ネットワーク主宰の水俣病資料館館長の吉本哲郎は云う。「多くの研究者が水俣にきたが、我々は結局何もわからなかった。」自分たちの手足を使って調べ、考え、協議する。自分たちの村や町にすでにある価値を再発見する。無いもの探しからから、あるもの探しへ。これが吉本氏のいう「地元学」である。「自分の町(水俣)を魅力的なものにしたい、何かモデルとなる事例やアイデアはないか?」こう問われた時、氏はこう応えた。「自分たちの集落を博物館化したらどうだろうか」と。

人々に自分たちの地域の歴史、特徴について学び、そこから良いものを探し出すようにさせる。博物館化とは、いわば地域住民によるそうした仕組みをつくることであった。地域にある良いものを探しそれに磨きをかけることによって、村や町は独自の真価をもった魅力的なものとなる。そうした試みから各々の自信が深まると同時に、地域の輪が広がっていく。杉本栄子さん、緒方正人さんをはじめとする様々な人が結びあい、地域魅力をつくっていく。「水俣のマンダラ」という輪となっていく。

1992年、水俣市は環境モデル都市づくり宣言を行った。1994年には吉井市長による「もやい直し」が語られた。もやい(舫)とは、字の通り舟と舟とを結びつけるロープのことを指し、地域の人々が改めて結びつき合うことを表している。こうした結びつきが「水俣のマンダラ」とも呼ばれたのだが、多くの住民や自治体関係者の働きによって、2008年偶然にも日本初の環境モデル都市に指定されたのだった。

こうした成功の裏にはやはり地域住民を主体とした活動があったと言える。市民側にイニシアチブがあり、それを政府がサポートする。市民が地域の自治を引き受けることが、住民それぞれの成長に繋がるとともに、市民のリソースをフル活用することにもつながった。

水俣の事例は私たちにとって非常に大切な視点をあたえてくれる。地域復興のカギは何か?それは地域に住む私たち自身であるという忘れかけてしまっていた当たり前の事実に。

結城登美雄「地元学からの出発」

舶来品や外来思想をありがたがり、在来の文化を低く見た。これが近代化の過程にあった隣の芝生が青く見えるという人間心理である。戦後教育では、自然と共に村を生きて行くための学びを捨て去り、都市社会の一員になる為の学びに重きがおかれた。

そうした中で都市であれ、地方であれそこに住む人々がバラバラになり、環境が変質することで、人々の地域への関わりも希薄化していく。結果、地域づくりの役割を行政に丸投げしてしまい、そのクセから抜け出せないでいる。

一方行政もそこに暮らす人々の声に耳を傾けることは少なく、現場から最も多い人々の考えや思惑に支配され、画一的なものをおしつける結果となっている。

そこで地域づくりの現状はどうなっているかと云えば、先進地と呼ばれる規範やモデルの事例に学び努力すべきと声高かに叫ぶ。活性化策といって経済的な向上のみ、その政策基準とした。2007年の品目横断的経営安定対策によって、大規模効率農業の推進が行われた。4ha未満の中小農家が政策支援の対象外となった。ここに失われている重要な視点がある。農村は単なる食料生産の場ではなく、小さくても、支え合って生きる暮らしの場だということ。

筆者はここに企業社会や都市が失ってしまったものがあり、それらは地域社会や農村漁村を「再発見」していくことで取り戻していける可能性があると説く。

経済活性化を第一義とみてはならない。住んでいる人口が多いからと言って優れた人間が多いわけではなく、人が減ったからと言って不幸な生活を送っているわけではない、という当たり前のことを前提として考えたい。これが地元学的地域づくりの根本にある。

では地元学とは何かと言ったとき、筆者は依然として明確な答えはできないと謙遜しながらも、以下のように語りかける。「徹底して当事者に寄り添って行われるもの。異なる人々が各々のお思いや考えを持ち寄る場をつくること。そうして生まれた良い町づくりを共に実現していくこと。」

長年その土地に生きていれば喜怒哀楽はもちろんのことそれなりの深い思いと考えを持っている。先ずはその心の内に耳を傾けてみることからはじまる。記憶を記録化することを一つの手段としながら、そこに暮らす人々の期待や願いを共に実現していく。そうして村はぐずぐずと変わっていくのだ。

東北地方における20年以上のフィールドワークを経て、考えられた(筆者は「教わった」と記している)地元学の原点には、筆者自身のふるさとの存在があるようだ。筆者が村を出て都市で暮らす際の描写は、筆者の人柄と心境とがうまく伝わってくる。以下に抜粋したい。
「廃村が決まって山を降りる時、村人は茅葺屋根を解体した。残しても一冬の勇気で潰れてしまう運命だった。買いたい作業班なんとも言えない光景だった。頼み込んで叔父の家を譲ってもらった。周囲は当然反対だったが、仙台という年をサラリーマンで生きていく自信が無かった。ネクタイで首を締め付けられ、人間関係や売り上げ目標で身を縛られ、いつも不安がつきまとった。そんな心細さにとらわれるたびに帰れる場所が欲しかった。青の村に変えれば何とかなる。そう思うとまだ続けられる気になった。廃村の廃屋がとしで生きていく息苦しさを救っていくれた。だが年に身を起きながら山奥の家を維持していくのは骨が折れる。冬は何度も雪位下ろしに通った。冬山登山のように終点のバス停tから5時間もy吹道をかき分け、たどり着いて3日間、一人もくもくと雪を下ろす。その度ごとにこの村を何百年にも渡って生きてきた村人の厳しさと強さを思った。先ずしさ所以をおもった。」

吉村昭 「三陸海岸 大津波」

「すさまじい轟音が三陸海外一帯を圧し、黒々とした波の壁は、さらにせり上がって屹立した峰と化した。そして、かい海岸線に近づくと峰の上部の波が割れ、白い泡立ちがたちまちにして下部へとひろがっていった。…波は、すさまじい轟とともに一斉にくずれて村落におそいかかった。家屋は、たたきつけられて圧壊し、海岸一帯には白く泡立つ海水が渦巻いた。人々の悲鳴も、津波の轟音にかき消され、やがて海水は急速に沖に向かって干きはじめた。家屋も人の体も、その水に乗って激しい動きでさらわれていった。干いた波は、再び沖合でふくれ上がると、海岸に向かって白い飛沫を撒き散らしながら突き進んできた。そして、圧壊した家屋やかろうじて波から逃れた人々の体を容赦なく沖合へと運びさった。ジャバ島付近のクラカトウ島火山爆発による大津波につぐ世界至上第二位、日本最大の津波三陸海岸を襲ったのだ。」

2011年3月11日の東日本大地震・大津波をさかのぼる事100年以上前の明治二十九年。想像を絶する大津波が人々を襲った。死者数26,360名。地上には壊滅した家屋と無数の死体。バラバラになったもの、逆さまになって埋れたもの。。梅雨の時期のため、少し時が経てば蛆がわく。その肉を野良犬が喰らう。腐臭が漂う。海面にも死体の山が。何十人の力を
かりて漁網で一斉に上げようとしても、重すぎて引き上げることができない。海水を飲み込んででっぷりと太った死体。それが50も、60も揚げられる。残された人々は、空腹と寒さとに耐えながら、ほそぼそと溺死者の追悼をあげる。

死体の多くは土砂に埋れていたというが、それらは当初掘り起こしても簡単には見つけ出せない。そのうち経験も積み重ねられて、したいの埋れている場所を的確に探し出せるようになったという。死体からは、脂肪分が滲み出ているので、地上一面に水を流すと、ギラギラと油の浮く箇所が現れる。その下を掘り起こすと、埋没した死体を掘り起こせる次第だ。

本書の中には、単なる津波という事象の記録に留まらず、そこで生活していた人々が直面したエピソードが盛り込まれている。幾多のかけがえのない生活、歓び、そして生命。それらを一瞬にして流し去った自然。

天災と人災は同時にやってくる

リーマンショック後、停滞していた世界の地球温暖化対策は、原子力を対策の牽引車とすることで景気対策と整合する“解”を見出し、この報告制は国際的にも合意ができつつあった。しかし、福島の事故はこれをも津波のように押し流してしまった。」(石弘之 「原発事故をめぐる国内と海外のあまりに大きな温度差」から抜粋)

もう一言の極意

「感動を言葉に出すと、それは感激になって人に伝わり、感激はまわりにいる人すべてが共有する喜びに昇華していきます。」

「人が好き。花が好き。仕事が好き。」

著者である林文子さんはビジネス界のおいて努力と仁徳でのしあがってきた素晴らしいお方。今日は所長からお叱りを受けたわけだが、お叱りは尤もであり、そもそもの原因は「現場で、お客様の前で頑張ることのしんどさと仕事への厳しさを忘れてしまっていたこと」である。であるからにして本邦側からの上司の言葉に対しても、厳しく向き合うことができなかったのだ。

+の或いは前向きな感情/思いは恥ずかしがらずに、堂々と述べ行動に移す。
・ご指摘ありがとうございます。

視点を変える/規律を守る/孫正義伝

<視点を変える>
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