結城登美雄「地元学からの出発」

舶来品や外来思想をありがたがり、在来の文化を低く見た。これが近代化の過程にあった隣の芝生が青く見えるという人間心理である。戦後教育では、自然と共に村を生きて行くための学びを捨て去り、都市社会の一員になる為の学びに重きがおかれた。

そうした中で都市であれ、地方であれそこに住む人々がバラバラになり、環境が変質することで、人々の地域への関わりも希薄化していく。結果、地域づくりの役割を行政に丸投げしてしまい、そのクセから抜け出せないでいる。

一方行政もそこに暮らす人々の声に耳を傾けることは少なく、現場から最も多い人々の考えや思惑に支配され、画一的なものをおしつける結果となっている。

そこで地域づくりの現状はどうなっているかと云えば、先進地と呼ばれる規範やモデルの事例に学び努力すべきと声高かに叫ぶ。活性化策といって経済的な向上のみ、その政策基準とした。2007年の品目横断的経営安定対策によって、大規模効率農業の推進が行われた。4ha未満の中小農家が政策支援の対象外となった。ここに失われている重要な視点がある。農村は単なる食料生産の場ではなく、小さくても、支え合って生きる暮らしの場だということ。

筆者はここに企業社会や都市が失ってしまったものがあり、それらは地域社会や農村漁村を「再発見」していくことで取り戻していける可能性があると説く。

経済活性化を第一義とみてはならない。住んでいる人口が多いからと言って優れた人間が多いわけではなく、人が減ったからと言って不幸な生活を送っているわけではない、という当たり前のことを前提として考えたい。これが地元学的地域づくりの根本にある。

では地元学とは何かと言ったとき、筆者は依然として明確な答えはできないと謙遜しながらも、以下のように語りかける。「徹底して当事者に寄り添って行われるもの。異なる人々が各々のお思いや考えを持ち寄る場をつくること。そうして生まれた良い町づくりを共に実現していくこと。」

長年その土地に生きていれば喜怒哀楽はもちろんのことそれなりの深い思いと考えを持っている。先ずはその心の内に耳を傾けてみることからはじまる。記憶を記録化することを一つの手段としながら、そこに暮らす人々の期待や願いを共に実現していく。そうして村はぐずぐずと変わっていくのだ。

東北地方における20年以上のフィールドワークを経て、考えられた(筆者は「教わった」と記している)地元学の原点には、筆者自身のふるさとの存在があるようだ。筆者が村を出て都市で暮らす際の描写は、筆者の人柄と心境とがうまく伝わってくる。以下に抜粋したい。
「廃村が決まって山を降りる時、村人は茅葺屋根を解体した。残しても一冬の勇気で潰れてしまう運命だった。買いたい作業班なんとも言えない光景だった。頼み込んで叔父の家を譲ってもらった。周囲は当然反対だったが、仙台という年をサラリーマンで生きていく自信が無かった。ネクタイで首を締め付けられ、人間関係や売り上げ目標で身を縛られ、いつも不安がつきまとった。そんな心細さにとらわれるたびに帰れる場所が欲しかった。青の村に変えれば何とかなる。そう思うとまだ続けられる気になった。廃村の廃屋がとしで生きていく息苦しさを救っていくれた。だが年に身を起きながら山奥の家を維持していくのは骨が折れる。冬は何度も雪位下ろしに通った。冬山登山のように終点のバス停tから5時間もy吹道をかき分け、たどり着いて3日間、一人もくもくと雪を下ろす。その度ごとにこの村を何百年にも渡って生きてきた村人の厳しさと強さを思った。先ずしさ所以をおもった。」